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信時潔の歌曲について(沙羅、小倉百人一首より、小曲集、帰去来、中国名詩五首)
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    去る2017年2月18/19日に東京と静岡でShin Musica様主催の信時潔の演奏会を小川明子(アルト)と私(ピアノ)、井崎圭氏(ピアノ独奏)で行いました。この時のプログラムに解説を書かせていただいたので、主催者の了解を得てここに転載します。なお、この時の演奏会の模様の一部は、YouTubeのチャンネル「シン・ムジカ/SHIN MUSICA」でご覧になれます。

     

     

    鑑賞の手引き

     「海ゆかば」1937そして近年再注目されている『海道東征』1940の作曲家として知られる信時潔1887-1965は,山田耕筰1886-1965の1才年下,瀧廉太郎1879-1903の8才年下の,いわば我が国洋楽の草分け的存在である。がしかし,山田,瀧の童謡唱歌が人口に膾炙するに対して,信時の作品はなかなか取り上げられないのが実情ではないか。本演奏会は,作品をまとめて演奏する事を通して,作曲家信時潔のイメージをより確かなものへと鋳直そうという試みである。

     明治20年12月29日大阪生まれ。実父吉岡弘毅はもともと尊王攘夷派の武士で戊辰戦争を戦い,明治政府の外交官を務めていたのが一念発起,下野してのちクリスチャンとなって長老派(カルヴァン派)教会の牧師へと転じた人物であった。11才の時やはり北大阪の長老派牧師,信時義政の養子となる。讃美歌に親しみ,オルガンも弾けた信時は東京音楽学校でチェロと作曲を学び,母校の助教授に奉職するとともにチェリスト,作曲家として活動を始めた。32才でベルリンに留学,帰国して後は作曲・演奏にとどまらず理論書など翻訳,執筆とともに,母校の作曲科創設に尽力する。また文部省刊行の『新訂尋常小学唱歌』編纂にもたずさわるなど,野にあった山田耕筰に対して,我が国の音楽界の官あるいはアカデミズム側の中心的存在であった。49才の時に作曲された「海ゆかば」,そして52才で作曲された『海道東征』が,経緯や本人の意図は別として,信時潔という作曲家の評価を決定したことは歴史のいたずらか,それとも運命か。戦後,母校を辞した後も創作を続けた信時は,校歌や団体歌を数多く残している。

     

    歌曲集『沙羅』1936

     作曲当時48才。連作歌曲の名曲として,この曲だけはステージにしばしばかけられる。国文学者の清水重道1909-1958は,東京音楽学校の同僚。歌詞はいずれも「やまとことば」=文語体であるが,「丹沢」,「北秋の」,「ゆめ」のように現代的なもの,「あづまやの」,「占ふと」のように王朝風のものなど様々な詩想が入り乱れている。それら多彩なベクトルを音楽化し,まとめてしまう作曲家の力量は見事としか言いようが無い。

     

    歌曲集『小倉百人一首より』1920-22(「ほととぎす」のみ1928)

     ベルリン留学中の作品。「国詩の本塁として不死鳥の如き永い生命を持ち続けた短歌の作曲化は私の宿願のひとつである」と後に語っているが,その最初の試みである。曲毎に様々なスタイルや和声が試されているが,すでに信時らしい簡潔さと格調の高さ,そしていくつかには私たちが今日イメージする「日本的洋楽の響き」を聴き取ることができる。帰国後1925年に出版されたが,「ほととぎす」のみは後に新たに作曲された。

     

    『木の葉集』1936より

     歌曲集『沙羅』と同時期に作曲されたピアノ曲集は,信時の代表作のひとつ。シューマンの『子供の情景』やメンデルスゾーンの『無言歌』などと同じロマン派のキャラクター・ピースの体裁を取っているが,決して子供向けの曲ではなく,作曲家自身が述べているように,当時我が国に輩出して来た若いピアニスト達の高い演奏能力を想定して書かれている。『沙羅』同様に音の運びはかの時代においても保守的な感は禁じ得ないが,そのぶん作曲家の円熟した技巧への自信が伝わって来る力作である。今回は全15曲から6曲を抜粋して演奏する。

     

    『小曲集』1917より/「帰去来」1948

     1925年出版の『小曲集』全4冊に収められた様々な歌から北原白秋1885-1942詩による歌曲6曲をまず取り上げてみたい。いずれも留学前の1917年に作曲されたものである。山田耕筰の白秋作品の多くが童謡で,口語体で簡明なのに対し,信時のそれは文語体で内面はより複雑である。是非歌詞を理解した上で味わいたい。時代は下って「帰去来」は詩人晩年の望郷の歌。白秋は『海道東征』の作詞者でもあるが,この詩も古事記や万葉の世界を彷彿とさせる。冒頭の「やまと」とは白秋の生地,筑紫山門郡のこと。「やまとは国のまほろば…」倭建命辞世の歌,死んで鳥となった神話の英雄のイメージが背後にこだましている。詩人の死後,詩碑が故郷柳川に建立されるのを機に作曲された。しみじみとした名曲である。

     

    歌曲集『中国名詩五首』1948/「不盡山を望みて」1930

     「海ゆかば」を書いた事を悔やんで戦後一切作品を発表しなかった,と言われるのは俗説で,戦後も信時は創作を続け,作品を発表し続けた。バッハへの心酔ぶりが有名な信時だが,次第に傾倒を深めていったのがヴァーグナーである。この『中国名詩五首』のいくつかには明らかにヴァーグナーの影響と「海ゆかば」との相似が聴き取れる。ずっと古い「不盡山を望みて」さえ『マイスタージンガー』前奏曲に似ていないだろうか。「海ゆかば」の魔力の源泉はヴァーグナーにあるのかも知れない。なお『中国名詩五首』について,以下に大意を記す。

    「春望」国は戦争に破れても山河は残り,城都には春がめぐって草木が深く茂る。時を感じては花に涙し,別れを恨んでは鳥に驚く。三月にわたる戦火にあって家族からの手紙の価値は万金にあたる。白髪頭を掻くほどに髪は短くなって,簪(しん=かんざし)を刺すにも耐えられないほどだ。

    「偶成」少年は老いやすく,学問は成就しがたい。一寸の光陰も軽んじてはならぬ。とはいえ池塘(池のほとり)で春草の夢が覚めぬうちに,階前(庭先)の梧葉(アオギリの葉)には秋の風が。

    「磧中の作」馬を走らせて西へと来たが,このまま天まで至りそうだ。家を辞してから二度満月を見た。今夜はどこに宿るか分からない。平らな沙漠は万里に広がり,人家の煙は断えてない。表題の「磧(せき)」とは沙漠のこと。中国は西へ行くほど標高が高くなり,崑崙山脈へと至る。

    「江南の春」千里に広がる土地にうぐいすは鳴き,木々の緑が紅い花に映えている。水辺の村や山中の郭では酒屋の旗が風にゆれる。南朝時代の四百八十もの寺,いくつかの楼台が煙雨にかすむ。

    「海に浮かぶ」険夷(幸不幸)など胸中にとどこおらせない。浮雲が大空を過ぎるのと何も異ならない。今宵は静かだ。海の濤(なみ)は三万里に広がる。月明かりの中に錫杖を飛ばして歩めば,天風に乗って下るがごとき清々しさだ。

     

     

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